世界はどこにある?

いま、古井由吉の『槿』という本を読んでいる。
一日数ページしか読み進められていないのだが・・。

本は小さなころからずっと読んできていて、
なぜかまわりにも本の好きな人たちが多かった。
読書は死ぬまで続けたいと思うことの一つである。

どうして本を読もうとするのか?
それはそこに本があるからだ。
って、登山の好きな人ならどこかで聞いたセリフかもしれないが、
わたしにとっての本や読書は実際、そんなところがある。
日本最古の本は『古事記』だったかな?
だとすれば日本であれ、世界全体であれ、人が書いた文章、本などというものは
たかだか2000年ほどの歴史しかない。
でも、その2000年の間に人はさまざまかつ膨大な書物を作り出してきた。
「本」は、人間が作り出して残してきたものの代表の一つだろう。

そこには地球上の(いや全宇宙の)森羅万象、ありとあらゆるもの、
そして人間が考えたり、想像したりしたあらゆるものが文字となって
言葉となって書かれている。
それを、いまを生きるわたしたちは“読む”ことを通して知り、
味わい、そしてまた考える。
読書というのは、直接話すことのできない過去の人や、遠く離れた場所にいる人との
ある意味、“会話”や“議論”を楽しむ行為だと言えるのかもしれない。

この時季になると無性に山や森へ行きたくなる。
できればあまり人の手が加わっていない山や森に。
そこにはハルリンドウやスミレの仲間、ヤマザクラやアケビの花、
ホオジロのさえずりやツバメの飛翔なんかが見られ、
人の世界とは離れた場所で、でも確実に他の生命たちが生きているのが実感できる。

わたしはひとりで山や森へ行くことが多いが、
歩きながら新緑の木々や可憐な花に目を奪われ、
鳥のさえずりや動物の気配にドキッとし、
太陽の光や風のさわやかさを感じる。
それは物言わぬ彼らの声を聴きに行っている、と言えなくもなく、
「ああ今年もきれいに咲いたなあ」とか、「またあの鳥たちがやって来たなあ」
と、心のなかでそんな声に応えたりしているのだ。
これも“会話”といえば会話かもしれない。

言葉や文章も、草花や鳥のさえずりも
それはなにかの“表象”ではあるけれど、実際、それを“解釈”するのは
それを読んだり、見たり、聞いたりするその人である。

さあ、わたしたちはこの世界の森羅万象をどう読み、どう聞き、
どう解釈するのか、できるのか?
人の言葉を信じるのではなく、自分の目や耳や心で感じ、解釈すること
世界はそこにこそあるのかもしれない。

さるぞー

さるぞー
1973年生まれ。小学生のころから山歩きを楽しみ、大学で本格的に森のことを学ぶ。林業、園芸、漢方薬の原料検査などの職を経たのち、インタープリター(自然解説員)を12年勤める。現在は精神障碍者の寮で働いているが、またいつか山や森の世界にどっぷり戻りたいと思っています。

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